昭和54年02月12日 朝の御理解



 御理解 第90節
 「上から下へ水を流すのはみやすいが、下から上へ流すのはむつかしい。道を開くというても、匹夫の俗人から開くのじゃから、ものがむつかしゅうて暇がいる。神のおかげで開かせてもらうのぞ。たとえ一時はむつかしいことがあっても、辛抱してゆくうちには徳が受けられる。」

 信心しておかげを受けるということは、ただ目先、目先のおかげを頂くのには、さほどのいうなら苦労はいらない。けれども、本当におかげを頂かせてもらう。この90節の前に、89節には、「此の方の道は傘一本で開くことが出来る」と仰る。その傘一本を頂くまでが信心辛抱である。ね、「ひとりでにものが出来るようなものぞ」とも仰る。そのひとりでにものができるようになるまでが、信心辛抱である。匹夫の凡人から開くのであるからものが難しゅうて暇がいる。こりゃまぁ誰しものことなの。ね。
 けれども、難しゅうて暇がいる。その間に辛抱して信心をさせて頂いておると、身に徳が受けられるとあります。辛抱しておるうちには徳が受けられる。だからおかげを頂く、おかげが受けられないから、もう信心もというて、その投げ出すようなことになったら、だからおかげは受けられないということが分かります。ね、目先目先の例えばおかげであるならば、もう本当にあの、本当どんなおかげでも、例えば神様はおかげを見せて下さるけれども、ならそういうおかげが何時も頂けるということではない。
 例えてもうしますと、昨日は丁度、高鍋、宮崎の高鍋の町長さんが、丁度一年前にお願いに見えて、町長選挙の時におかげを受けて、そして一年ぶりにお礼に出てきなさった。もう昨日5時頃、4時頃だったか。でしょうかね。それでお礼に出らにゃ、お礼に出らんならんと言いながら、とにかくおかげを頂いて、こりゃやっぱ金光様のおかげじゃろう、金光様のおかげじゃろうと思う、節々が一年間にいくつもあったという。それで、どうでも今日はお礼に出らにゃというてお礼に出てきた。
 今日一遍お参りしてきた時、しかも勿論高鍋のご信者さんが皆勢祈念をなさって、お取次ぎを頂いてお願いなさったんですけれども、まぁおかげをそして頂いておる。鳥栖の上野さんのところの孫が今度高校行く。なかなか頭が良いから、県立を受ける。まぁ滑り止めに私立も受けるというので、私立を幾つも書いてもってきた。そしたら、あの県立の方には丸は付けてもらわんじゃった。
 して私立の方だけを一つおかげ頂いた。それでもうどうしてじゃろうか、どうしてじゃろうか。やっぱ県立探すの出来んのじゃろうかというて、まぁを言いながらも、先生が丸付けて下さったその、これは私立でも大変程度の高い学校ですけれども受けた。そしたら成る程県立は受けんでよいというその、訳が昨日分かったというて、昨日お礼に出てきた。それはどう言う事かというと、その特待生のおかげを頂いておる。
 だから特待生になったら、もう県立には受けられないことになっておるからね、十万円の入学金も、一万五千円ずつの月謝もいらないちゅいう。もう家中で大喜びに喜んでおる、というてお礼に出て来ました。だから、そういうおかげなら、まぁ昨日がそういうおかげ続いてました。そういうおかげを受けたのが昨日、日曜でもありましたから沢山お参りがありました。けれどもね、一つも難しいことじゃないわけですね。
 けれども皆さんのように毎日朝参りもする、日参も続けて頂いて、例えばおかげを頂きたいという人は、今日のここんところが分からなきゃいけない。辛抱というても、ね、身に徳を受ける為の辛抱だと言う事。ね。辛抱していきよれば身に徳が受けられる。その身に徳が受けられるそこからなら傘一本、いうなら安心の大みかげも頂かれる、ひとりでにものが出来るようなおかげも受けられるという、今日は御理解なんです。
 昨日は川上さんの、福岡の川上さんのところのお父さんの式年、三年の式年祭でした。もう本当にもう、それこそ念のいったその、それこそお祭でしたが。もう不思議にもうとにかくもう不思議にその、もう本当に御霊の働きだろう、神様の働きだろうと思わにゃおられないような、もう万事万端お繰り合わせの中に昨日のお祭が仕えられた。神様にお礼、お届けさせて頂いておりましたら、あの、今頃は皆さんそんな体験ないでしょう、若い方達は。私だん昔は、そのいわゆる下駄ばっかりですかね。
 履物。あの下駄の刃にこんな石がこう挟まることがあるでしょうが、歩きよるうちに。ね、そしてなかなかとれません時がね、だから挟まったままでは、なかなかくりくりして歩きにくい。その履物に丸い石がこう挟まって、歩けることは歩けるけれども、歩きにくいというのが、この三年間の御霊の姿であったとこう。もうそれこそ、まぁあのような手厚い信心をなさって、毎日御祈念の時には御霊様の前で、おかげの泉を何ページずつか読まれるんだそうですね。そすともうそのお勇みがあるそうです。
 まぁそういう御霊様へ対してでも、使い方でしたけれども、その私はその事情は知りませんけれども、おじいさんとそのおばあさんは、別に二人で鹿児島の方で暮らしておられたんです。それだからではないかと思うんですけれども。あの「子供恋しい、人恋しい」と頂いたです。この小石というのはそういうことだ。ね。求めて求めて求める心、そりゃ恋しい恋しいのいうならば、あのという時には、なかなかそれこそ我情我欲がはずれた時に、人間が楽になると言われるようにね。お互い人間でもそうです。
 もうとにかくあれがもらいたい。これば頂きたいと胸に何時もある時にはね、なかなか歩き難い時です。ね、お商売ならお商売でもです。昨日なんかは、これもやっぱりあの、簡単な、で頂くというおかげは、今、あのあちらは大分の臼杵から熱心に参ってこられる御信者さんが最近ございます。そしてもう合楽に、もう一遍参って来て、そのまぁ合楽ファンになられて、呉服屋さんです。
 昨日は、卸元から来て、展示会があった。どうでもだからその、何ですか、御祝儀ものの、十組だけを目当てに、その昨日はまぁ売り出しですかね。展示会があっておりました。ところがお願いしてあるのに、もう午前中はもう、とにかく九分九厘できたと思ったら、又見合せましょう。見合せましょう。皆そのまぁ、お客さんがお客さんにならない。そこで、又改めてこんなわけですから、もう今日一日ですからというてその、お願いをされたらもう、それから七組続けてあった。
 しかもその10組売ってもこれだけの金額にはなららないと言う様な、高級なのが七組も売れたちいう。もう本当にお取次ぎを頂いてお願いをするということはこんな有り難いことだろうかというて、矢野先生があの受けて、そのことのお届をしておりましたように、ね、そういうおかげならそげん、いうならばね、ね、下から水を流すように難しいことじゃないでしょうが。
 勿論これは私は、お道の教師に対する御理解だと思うんですけれども、ならここでは、教師も信者もない。今私が聞、皆さんに聞いて頂きよるような風にして頂いたら、なら皆さんもなるほどおかげが頂ける、辛抱しにゃいかん。その辛抱も信心辛抱でなからなきゃいけないということが分かるんです。そこで、はたしてこうやって、一生懸命信心しよるが、はたして信心辛抱になっておるかどうか。ね。
 今日もいうならば歩き難い一日でした。けれども結構な修行させて頂いて有難うございましたと言った様な心から、それこそ涙がこぼれるような、きつければきついほど、そういうお礼が出て来る程しの信心が続いてから、初めて私はねひとりでに物が出来るような、それこそ一本の傘で道が開けると言う様なおかげに繋がって来ると思う。ね、これはなら、私の椛目で人が助かりだしたその以前のことを思われるとそうです。
 もうあれほどの信心しよって、どうしてあげん難儀せんならんだろうかという中に、それを私はただ難儀とはしなかった。本当に修行としてお礼を申し上げれる内容でおかげを頂いてきた。ね、なら椛目で人が助かり出したら、それこそまぁあっちこっちからいろんな問題が起こるほどしに、あれよあれよというほどしに、人が助かっていったでしょう。ね、その苦しい辛抱、その辛抱の時がただ苦しい辛抱でなくて、有り難い辛抱であったということです。ね。
 そのいうならば、難儀苦労という、その時に、いうなら、徳が受けられるような、力が受けられるような、信心辛抱を出来ておった。ね、いよいよもう、商いも差し止められて、椛目に帰れといわれた時点から、椛目でどんどん人が助かるようになった。ね、だからいかにその辛抱しておる、その過程そのものが、大事かということを、ここでは分からせてもらいます。
 昔の先生方は、そういう傘一本も持たず、ただおかげを頂いて、この神様は間違いない神様だなぁと言った様な一つの信念が出来ると、すぐこうどんどん布教にでられた。だから、食う、それこそ食うもんも食われんような、着る物も着られんような難儀苦労して、そして、その布教に出てから苦労されて道が開けた。私はここの場合は、例えばこの頃からも、あの申しますようにね、散髪屋さんでも、五年間の修行がいる。
 しかも後の五年はもうみっちり修行しなければ、店を出す自信は生まれてこんと、ここに来る理髪屋さんがいってます。床屋さんでもというと失礼だけれども、それこそ人が助かるだけではない、自分が助かるだけではない。それこそあの世にも持って行き、この世にも残しておけるというほどしの、神様が一番喜んで下さる程しのおかげを頂くことにおいて親なんです。ね。ね、そこに一つ思いを置いてです、本気で、例えばなら、昨日の一昨日の研修の時に申しましたことです。
 今どんなに有り難いと言う様ななら、おかげを頂いておってもそれが直ぐおかげに繋がらないよ。ね、例えば、ずっと勉強させてもらいよる。おかげで試験はいつも、百点満点例えばとりよってもです。それからというて誰も給料くれるもんなおるまいがち私が。ね、ただ勉強だけでしょうが。ね、そういう良い成績を持って、いうならば仕事につかせて頂いた時に、誰よりもよいところに就職もできりゃ、誰よりも給料の高い、給料も頂けるようなもんで。
 今ここで修行中に、あれも頂いたこれも頂くと言う様な事がですね、ただもう充実した信心の稽古。ただ今日あたりのようなところをです、しかも、あなたのところの場合は教会に修行中にそれをして、出たらもうあっという間に道が開けるような一つ修行をしとかなきゃいけないよと言う様な話しでしたけれどね。これをなら、ご信者の皆さんが聞いて下さるということになると、なら今日私が申しました、折角毎日こうした信心辛抱が出来てる。日参が出来ておる。教聴しておる。御用も出来ておる。
 そんならその内容が、信心辛抱でなからなければならない。匹夫の凡人から道を開くのであるから、ね、本当に凡夫から、いうならば恋し恋し、人恋しと言う様なね、物が恋し、おかげが恋しという時ですからね、そういう歩きにくいけれども、それが取り外されたらどういうことになるかというと。次のお知らせに、昨日の霊祭の時に、何かプラチナかなんかの台だろうと言う様な、あの指輪の、あの何の宝石かは知らんけれども、見事な宝石をここにこうやって入れるところを頂いた。
 指輪の台があるでしょうこう。宝石をずっとこう。ここにこうやって、あの宝石を入れる、いうならば履物に挟まっておる、小石を取り除かれて楽になっただけではない。ね、その上に、いうならば、その玉が入っておる。ね、ほう、いうならばそれこそ宝のようなものがここに入っておる。もうこれはお徳だと。私は思うんですけれどもね、皆さんが例えば一生懸命、なら難儀な時、今こそめぐりの、お取り祓いと言った様な気持ちで、修行しなきゃいけんです。
 苦しいことが大きいければ苦しいほど、これだけ沢山のめぐりのお取り祓いを頂いたというて、一生懸命いうなら天地に対する借金払いが出来ておって、いうならば、百万なら百万の、いうなら借金払いが出来た時にはね、もう百、百万円の貯金が出来ておるということが、私は金光様の信心の素晴らしいところだと思うです。ね。これを神様がね、取り上げるばっかりじゃない。本当に、氏子が一生懸命めぐりのお取り祓いというて百万円の、いうならばめぐりのお取り祓いを頂いた。
 いよいよ楽になった。下駄の、からその、丸い小石を取り除いて頂いた。これだけでも楽になったというのだけれども、ね、もうその時には既に次の宝石の、が頂けれるほどしの信心が、金光様のご信心です。合楽ではそこを頂いているんです。ね、いうなら百万円のお取り祓いを頂いた、百万円のめぐりのお取り祓いを頂いたと思った時には、もうすでに百万円のそこに、貯金が出来ておった、いわゆる徳が出来ておったとこういう。素晴らしいことです、
 だからその徳によるところの、いうなら傘一本で開ける道があり、またはひとりでに物が出来るようなおかげ。それこそ上から下へ水を流すようなおかげになってくる。昨日なんかは、宮崎の方に、謝恩祭がありましたから、四人の先生方が朝のご祈念の、五時の御祈念終わって直ぐ行きました。それから、鞍手の方へ改式祭がございましたから、末永先生を先頭に、四名の先生方があちらへまいりました。ここでは、そういうようにちょうど三時から、私が祭主で、四名の先生方でお祭りを仕えた。
 指出地区の共励会でしたから、あちらには、5、6人ぐらい、皆いったんじゃないでしょうか。近くですから。で、おかげを頂きました。それがもう一糸乱れず、そりゃ困るね、こげん日にちが重なったから、どんこん出来んじゃなくて、どこもここも有り難い雰囲気が生まれるだけじゃない。おかげを頂いて帰ってきておる。ね、もう広がりに広がっておる実情がわかるでしょうが。ね、こりゃもう本当に大したことだなぁ、流石に合楽だなぁと思いました。
 はぁ沢山な先生方がおりますけれども、やっぱそういうことのために、いうならば沢山の修行生もここでは要るということになります。ね、そりゃもうあそことこことそげん、重なるならどんこんされんちゅうことはない。ね、そういう例えば、ならおかげというものが、私が椛目に帰って来る、その以前の信心しよってどうしてあげん難儀が続くだろうかという、その間をです、匹夫の凡人だからというのは、めぐり多い大坪家であり、大坪であるから、ね、中々もって道は開けなかった。
 いやむしろあれだけ信心するのにという、反対なことが続いたけれども、それをただ、難儀にせず、苦労にせず、修行として、お礼が申し上げれるような心の状態が開けてきた。一生懸命の、いうなら借金払いが出来てきた。はぁこれでおかげで借金祓いが出来たと思う時には、もうそれだけの借金のいうならば力というか、貯金が出来ておった。その貯金が、皆が助かる基になって、今日、日勝り月勝りの、いうならば繁盛のおかげを頂いておるのが、合楽のいうならば一つの生き手本なんです。
 ですからここにご縁を頂いておる人達は、そこんところの道理をようわからせてもろうて、辛抱の、例えば、ただ難儀、ね、それこそ何時までほんに朝参りせにゃんじゃろうか、と言った様な簡単な考え方ではいかない。お参りをする、信心が分かる。そこに信心の楽しさが分かり、なるほどおかげを頂いていない。まだ歩きにくい時ですから心配もある。それこそ楽しさと、心配とというところなんです。
 その心配が段々高度なものになってきて、心の中に、とにかく豊かな心が頂かせてもろうて、ね、いうなら難儀はが大きければ大きいほど、おかげが大きいと分かり。難儀が今日はもう本当に、今日はもうへとへとだったと言うほどしの難儀であってもです、おかげで結構な修行させて頂いて有り難い、とお礼がいえれるような信心をね、やはり本気で身に付けていかなければいけないと思います。ね。
 この90節は、そのように頂くとお道の教師だけではない。ご信者さん、皆さんもやはり有り難く頂く。そしてまた分からせて頂くことが出来ます。ね、傘一本で開ける道どころじゃない。もうましか、確かに傘一本で開ける道。その傘一本を頂くための、日々の信心修行でなからなきゃならない。なるほど傘一本の、が段々おかげを頂いていきよるなと思う心は、自分の心の中にです。ね。
 昨日その霊祭の時に頂いたご理解の中に、ね、例えば目に見えないもの。結局自分の心であったり、お先祖。それをどのくらいに大切にしておるかと言う事が、あなたの信心の目盛だ。パロメーターだと頂きました。ね、目に見えないいうなら、お先祖。目に見えない自分の心をどのくらいの心づくしを持って、日々の信心生活が出来ておるか。目に見えないところを粗末にするようなことでは、ね、結局あなたの信心のいうならば目盛なんだ。そういうところが段々、本当に出きて来るようになりますから。
 信心がいよいよ有り難いもの、楽しいものになってくるというて、心配がそこで切れるわけではない。歩きにくいところを、歩いておるのですから、やはり不安もあるけれども、ね、その不安が段々いうならば、消化されてくる。ね、有り難いものにいわば、内容が変わってくる。そうしていよいよ、いうなら確信ができる。先生方ならば、それこそね、布教にでる。
 先日から末永先生が、ある所のこれも改式祭に参りました。そこのご主人がまぁ大変先生に帰依して、今度ブラジルに帰られる。もしあちらでお金どんが足りんごたる時にはこれを売って下さいというて、それこそ大変な高価な物を、末永先生にお供えしておられる。時になら末永先生が感じとる事です、自分があちらへ行ってです、例えば物まで売らんならんような、貧乏せん鳴らん様な事は絶対ない。と確信してるんです。
 だからこれは合楽にお供えしていくべきだというて、お供えしております。ね、例えばね、はぁそりゃ有り難いこっちゃ、こればならいよいよいかん時には売りゃ、これまぁ沢山な金になるものですから。ね、その時に使おうというたら、もう本当にそういうことになって来るです。ね、それこそ不安なんかはもう蹴散らかして行けれるほどしのです、ね、そういうことじゃない。そういう神様ではない。そういう確信が出きるところまでね、私は頂いて初めて一本の傘を頂いた時だという風に思うんです。
 だからその信心辛抱いわばしておる時に、今が苦労の真ん中かと思うような時にです、いうならば結構な修行させて頂いて有り難い、勿体ないと言う様な心が湧いて来る様ないうならば信心にはっきり焦点をおいての信心じゃなからにゃいけん。さぁここの苦しい所から、どげんしたなら抜け出るじゃろうか、おかげ頂けるじゃろうかという焦点じゃない。この苦労を通してどういう信心を神様は体得させようと言うておられるかと言う様な所に、いうなら着眼しての信心じゃなからなきゃならんと言う事になりますよね。
   どうぞ。